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創立者・功労者

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よこい  たまこ

横井 玉子(1854-1903)創立者

 安政元年(1854)、熊本の支藩である新田藩(高瀬藩)の家老・原尹胤(これたね)の次女として築地鉄砲洲(現東京都中央区)に生まれる。明治元年(1868)肥後高瀬町(現熊本県玉名市)に移住。明治5年(1872)、思想家・横井小楠の甥にあたる横井左平太と結婚。夫がアメリカ留学中は横井家に残り、熊本洋学校に学んだといわれている。夫は帰国後、病に伏し、明治8年(1875)に逝去。その後は、上京した小楠の妻・つせ子とともに暮らし、裁縫・料理・茶道・作法などを学ぶ。明治12年(1879)、キリスト教の洗礼を受ける。明治19年(1886)、東京府師範学校にて高等裁縫、高等女礼式の教員資格検定試験に合格。ミッション・スクール新栄女学校にて教員兼事務監督に就任。同校が他校と合併し女子学院となった後も、引き続き教員兼寄宿舎舎監を務めた。また、女性の自立や地位向上を目指し、東京婦人矯風会(現キリスト教婦人矯風会)の中心メンバーとして活動した。 明治33年(1900)、藤田文蔵らとともに私立女子美術学校を創立。開校後は舎監兼監事に就任。経営難のため資金援助を求めて奔走した。本学の経営を後の初代校主・佐藤志津に託した後、明治36年(1903)に病気により逝去(享年48歳)。

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ふじた  ぶんぞう

藤田 文蔵(1861-1934)創立者・初代校長

文久元年(1861)、池田家の漢学者田中幾之進の三男として因幡国邑美郡湯所村(現鳥取県鳥取市)に生まれる。明治9年(1976)、工部美術学校彫刻学科に入学、ラグーザに洋風彫刻(塑造)を学ぶ。明治10年(1877)、牛込基督教会初代長老・藤田盡吾の養子となり、キリスト教の洗礼を受ける。明治20年(1887)東京美術学校(現東京藝術大学)彫刻科教員(雇)となり、明治33年(1900)から38年(1905)まで東京美術学校塑造科教授を務めた。
 明治33年(1900)に横井玉子らとともに私立女子美術学校を創立。翌年、本学初代校長となる。この頃、八咫鏡(やたかがみ)の中央に「美」の文字を配した校章を制定する。開校後の経営難に際しては、東京美術学校教授として受け取る報酬のすべてを本学の資金に当てるなど献身的な努力を続けた。明治37年(1904)、校主・佐藤志津に校長職を任せ退職。その後は、《榎本武揚像》(大正2年)をはじめとする大型の肖像彫刻像を手掛けるなど精力的に制作を続ける傍ら、世田谷太子堂にてキリスト教伝道活動を始め、大正13年(1924)世田谷基督教会(現世田谷キリスト教会)を創立させた。昭和9年(1934)逝去(享年72歳)。

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さとう   しず

佐藤 志津(1851-1919)初代校主・第二代校長

 嘉永4年(1851)、父・山口舜海(後の佐藤尚中(たかなか))の長女として生まれる。父が順天堂創始者・佐藤泰然の養子となったため、代々順天堂堂主を務め、日本における西洋医学の導入を牽引した佐藤家に育つ。幼少より漢学・国学・三味線・長刀・香・花・茶などを学ぶ。元治元年(1864)には堀田正睦の息女・松姫のお相手として御殿に上がり、茶・読書・和歌・細工などを身につけた。慶応3年(1867)、佐藤進(旧称 高和東之助)と結婚する。進は後に順天堂第三代堂主となる。志津はさまざまな慈善事業に取り組み、女性医師の援助なども行った。
 横井玉子と出会い、経営難に陥った私立女子美術学校の経営を立て直すため、明治35年(1902)、初代校主に就任。多岐にわたる人脈を生かし資金援助を求め、本学を廃校の危機から救った。明治37年(1904)には第二代校長を兼任。菊坂新校舎建設(明治42年)や私立女子美術学校附属高等女学校(現女子美術大学付属高等学校・中学校)創立(大正4年)などの事業を成し遂げ、本学の発展に貢献した。大正4年(1915)に女子教育功労者として勲六等を叙され、宝冠章受章。大正7年(1918)には帝国教育会より教育功労章を授与された。大正8年(1919)逝去(享年67歳)。

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